序言


 本書『ジェイムズ経験論の周辺』は、以前に著者が著した『ジェイムズ経験論の諸問題』の続編である。より正確に言えば、本書で示される各々の章は前書『ジェイムズ経験論の諸問題』の補遺として収録されるべき性質の論文であったが、ページ数の関係で削除されてしまったので、あらためて独立した章として登場させたものにすぎない。それ故に、本書は補遺『ジェイムズ経験論の諸問題』と名づけられるべきであったが、そうはされずに新しいタイトルである『ジェイムズ経験論の周辺』と名づけられたのは、それなりの理由がある。
 それは、決してジェイムズの流儀を真似たというわけではないが、丁度彼が『プラグマティズム』の続編として『真理の意味』を著し、自説のプラグマティズムを究極的には擁護しつつも、方法論としてのプラグマティズムから真理論としてのプラグマティズムを強調したように、著者もまた、ジェイムズ経験論をより一層敷衍する意図は変わらないにもかかわらず、本書においては前書と違った視座に立った考察に重きをおいて論を展開しようと思ったからである。すなわち、前書の『再版にあたって』において若干触れ、本書においても繰り返し強調するように、本書においては「社会思想」家ジェイムズとしてよりも、ある種の「認識論」者ジェイムズとしての考え方を浮き彫りにしてみようと思ったからである。
 このように著者自身のジェイムズを見る目が変わったのは、前書を刊行してからの十数年間に著者のものの考え方が変わったからだというのは、節操のなさを告白するようで気恥ずかしい限りであるが、著者の周辺でここ十数年間にまきおこっている「知」の問題を巡る哲学界の動向よりの影響は如何ともしがたく、哲学の道に立たんと願う著者としてもその動向に何らかの参画をすることを余儀なくされたからである。
 言うまでもなく、今日における「知」の成立の解釈は、デカルト以来の二元論的思考習慣に基づいて、いわゆる「科学知」に収斂させる認識論に支えられている。それはまた、F・ベーコンの「知は力なり」とする実践的人間の生き方に好都合な道具的役割を果たす結果となり、そこから生まれた「ヒューマニズム」の精神も「知」を「利用の対象」とする以外の方法では己れの存在根拠を提示しえない破目となった。にもかかわらず、この考え方が近代人の本性を「ホモ・ファーベル」として位置づけさせることによって人間の動的側面を強調したために、以後今日に至るまでそれは生を営まんとする近代人の金科玉条となってしまったのである。
 「知」が人間にとって「利用の対象」ではなく、別のものであるという考え方は昔からあった。その最たるそれが哲学者の考える「愛の対象」ではなかろうか。しかし、ここで著者はそれらについて比較検討しようと言うのではない。ただ「知」が利用の対象であれ、愛の対象であれ、そう考えられるには、その地平部分には「人間とはなにか」を巡るビジョンの葛藤があっただろうことを伝えたいだけである。そして「知」の問題を巡る哲学界の動向もその背後では人間観ないしはヒューマニズム観の変貌の兆しに対応していることに気づいてもらいたいだけである。
 この「知」の問題について、本書に関係する内容の範囲内で言わせてもらうならば、これは「実在性」の解釈を巡るそれであると言えるのではないだろうか。従来の二元論的思考習慣に従うと、「実在性」は大抵の場合は「存在性」の方に引き寄せられて解釈されていたし、ごく稀に、その反動のような形で、「実存性」の方に取り込まれていた。そこでは実体論的解釈が底流としてあったため、「実在性」は主観の前への客観の現出、あるいは客観についての主観の了解のいずれかによってしか保証されえない第二義的特性を帯びるようになってしまったため、存在でもあり同時に実存でもある人間のアイデンティティは引き裂かれたままに己れの生を維持していかなければならなくなってしまった。
 そこで「実在性」を「存在性」と「実存性」との間の中間的なものとする考え方が導入されてくることになるわけであるが、問題なのは、それでは存在と実存の中間的な実在が考えられるのかという実体論的解釈をいかに打開していくかということであった。
 著者の思うに、そこから従来それほど意味あるように使われてこなかった「現象」とか「経験」とかいう言葉が、実在的なものとして脚光を浴びてきたのではないだろうか。但し、その際、これらの言葉は新しい装いをもって登場しなければならなかった。「実在性」はわれわれの生にとって第一義的でなければならず、そのためにそれはあらゆるものがそこから導出される「根源的なもの」いいかえれば「生そのもの」であったし、「現象」や「経験」もわれわれの生が出会う「最初のもの」であり、そこから「存在」や「実存」は函数的関係によって導出される第二義的相関物とされたのだった。そしてこういった考え方に対して学問的に取り組み、今日の哲学的潮流の礎となったのは、フッサールを初めとする現象学派の人達であったことは周知の事実である。
 本書の主人公であるウイリアム・ジェイムズがそのような考え方を当初からもっていたことについては、著者も十分に判ってはいたし、それは前書の『ジェイムズ経験論の諸問題』においても遺漏なく述べたつもりである。とは言え、前書が一貫してそこに注意の焦点を向けていたわけではなく、他方ではジェイムズについては「知」を「利用の対象」と見る見方の現代的タイプのチャンピオンであるとの認識にも囚われており、如上の考え方を辺縁の部分に押しやっていたのは事実であった。
 というのは、拙著『ジェイムズ経験論の諸問題』が出たのは一九七三年の一月であったが、お恥ずかしいことながら、この著を執筆していた一九六○年から七○年代の初めのその最中に、フッサーリアン達がジェイムズを「原始現象学者」として注目しだしていたとは露知らず、従って参考文献として利用させてもらったのは、J・ワイルド等の著書の一部を除いて、それ以前に敢行されたプラグマティスト・ジェイムズを敷衍するものばかりであったからである。
 それ故に、彼らから教えられたというわけでもないのであるが、今回の著書『ジェイムズ経験論の周辺』においては前書で等閑視していた視座、すなわち「知」の新しい在り方を求めていたエピステモロジスト・ジェイムズの立場に立って、彼自身の思想の吟味というよりは、彼の思想上の周辺にある人達の考え方をとりあげ、それをジェイムズのそれと対照させるとの趣向のもとに、世に問うてみたかったのである。
 内容的に触れれば、第一部においては、三章を使ってフッサールとの思想的関連性が論じられている。フッサールに関しては、その認識論的考察というよりは、彼のあまり興味のなかった「人間学」に引き寄せた「フッサール現象学」の素描にすぎず、厳密なフッサール研究家から著者の杜撰さを問われそうだが、それは「ジェイムズ経験論」をひき立てたいとする著者の独善的なコンテキストに従っているからである。その「ジェイムズ経験論」が、はたして現象学と同一視され、その名も「現象学的プラグマティズム」あるいは「プラグマティズム的現象学」と発展しうる可能性を残しているかどうかは、もう少し検討の余地があるだろう。それに、ジェイムズ自身が警告するように、著者もまた「悪い主知主義」に陥りたくないし、またそこまで論及する資質も現在のところないので、この点については、読者の判断におまかせする以外にはないだろう。
 第二部においては、言ってみれば、比較研究によって「ジェイムズ経験論」が浮き彫りにされるべく、文字通りジェイムズ経験論の周辺に位置する人達あるいはテーマが素材とされて論じられている。ここに登場する人達もまた、反面教師としてであれ、パートナーとしてであれ、第一部と同様のコンテキストのもとに描かれている。
 大まかに言えば、この第二部における各章は、前書『ジェイムズ経験論の諸問題』で削除された論稿の内容とほぼ変わらないのであるが、それでも本書に収録するにあたっては、著者の新しい視座のもとに若干の追加と修正がなされている。
 本書のタイトルについてであるが、第一部に登場するフッサールもジェイムズ経験論の周辺にある人であるということもあって、この第二部のタイトルが本書全体のタイトルになっている。
 すでに、お気づきのことかと思うが、本書がジェイムズ経験論の周辺にある人達を取り上げていると言うならば、当然論じられるべき人達についての言及がない。それはジェイムズと同じプラグマティストといわれるS・パースとJ・デューイについての論究である。間違いもなく三者三様のプラグマティズムであるわけだから、ジェイムズィアンとしても言及して然るべきなのであるが、これについては、あまねく多くの人達によって考察し尽くされているということもあったのだろうが、彼ら二人については前書『ジェイムズ経験論の諸問題』の時代から不思議と注意がふり向けられなかった。今回の場合も、著者の視座から離れていたせいもあって、殊更に省いてしまったが、いずれの機会にか著者なりの見解を打ち出してみたいとは思っているのでお許し願いたい。
 冒頭にも述べた如く、本書は前書である『ジェイムズ経験論の諸問題』の続編でもあるが、それでも一応独立した著書としての体裁を整えている。従って、本書のみによっても「ジェイムズ経験論」の輪郭が掴めるように配慮はしている。そのため、本論や注において、前書で論じられている部分が、若干ではあるが、重複して論じられているのは止むをえないと考えられる。本書にもの足りなく思われた読者の中から、前書の『ジェイムズ経験論の諸問題』を参考にしていただく方が一人でもおられるならば、著者にとっても、これ以上の喜びはない。
 最後に、その前書について、かなり舌足らずな表現であったにもかかわらず、いろいろな方面からの、また様々の視座に立った方からの御教示、御叱正を賜わり、大いに教えられるところがあった。今回の『ジェイムズ経験論の周辺』が出版されえたのも、彼らのお陰であり、ここにお礼を申し述べさせていただくとともに、哲学を志す者としての著者はまだまだ未熟ではあるので、本書についても、あらたなる御教示、御叱正を賜わりたく、心からお願いする次第である。
 本論に入る前に、あらかじめ、本書においてジェイムズの言葉を引用する場合のその出典の根拠となった書物とその略記を示しておきたい。これについて一言いわせてもらえば、本書の執筆時には、すでにすでにジェイムズの母校であるハーバード大学から彼の『全集』が刊行されていた。これからのジェイムズ研究家には、この『全集』が定本となると考えられ、本書においてもこれをもとにすべきであると思ったのであるが、前書の『ジェイムズ経験論の諸問題』がこの『全集』の刊行される以前に出された関係上、これ以前の刊行の単行本に従っていたので、統一性を保つという意味からも、本書においてもまた、下記の如くの単行本(冒頭はその略号)から引用させてもらった。尚、それらの単行本の発刊年度は必ずしも初版を示す年度ではない。それらを知るには前書『ジェイムズ経験論の諸問題』の中に記載しておいた『ウイリアム・ジェイムズ年譜』を参照されたい。

P.P. : The Principles of Psychology, Dover, 1950
W.B .:The Will to Believe and Other Essays on Popular Philosophy, Dover, 1956
H.I. : Human Immortality, Two Supposed Objections to the Doctorines, Dover, 1956
V.R.E. : The Varieties of Religious Experience, A Study in Human Nature, The Modern Library,1929
Prag. : Pragmatism and Four Essays from the Meaning of Truth, Meridian Books,1943
P.U. : A Pluralistic Univers, Hibbert Lectures at Manchester College on the President Situation in Philosophy, Longmans, Green,1911
M.T. : The Meaning of Truth, A Sequel to 'Pragmatism', Longmans, Green,1911
S.P.P. : Some Problems of Philosophy, A Beginning of an Introduction to Philosophy Longmans,Green,1931
M.S. : Memories and Studies, Greewood, 1968
E.R.E. : Essays in Radical Empricism, Longmans, Green,1912
C.E.R. : Collected Essays and Reviews, Longmans,Green,1920

一九八六年十月                         著者


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